「柚木、そうじゃない!」
思わず鵲(かささぎ)は叫んでしまった。芝生に着地した柚木が怪訝な顔で鵲を見た。
「相手の攻撃を受けた時は、後ろにも風を置くのだ」
「後ろにですか?」
「そうすれば、剣だけではなく風でも相手を受け止める事が出来る。反動を用いて、より早く次の攻撃に出る事も出来る」
柚木の顔に尊敬の色が浮かんだ。
「さすが鵲さんだ」
「いや・・」
今の自分には風は使えない。それを鵲は思い出した。鵲は相手をしていた竹生に深々と頭を下げた。
「余計な事を、申し訳ありませんでした」
鵲は足早に屋敷の中へと入って行った。竹生は黙って鵲の背中を見送った。夜空には満ちて行く半分の月があった。
鵲はそのまま二階の自室に引き上げた。鵲は個室を与えられていた。作り付けの箪笥と寝台、書物机に棚。日常には何不足ない部屋であった。隅に簡素ながら洗面台と流しもあった。茶を沸かす位は出来る。寝台のある片隅は衝立で仕切っていた。ここで警備の打ち合わせをする事もある。個人的な空間と分けたかったである。書物机の椅子に腰を下ろすと、鵲は左の拳を右の掌で包んだ。そしてぎゅっと手を握り締めた。悔しかった。
(風の力さえ、力さえあれば・・)
柚木がまだ未熟なのは若いから仕方ない。それは許せる。だが自分の風を封じられた事を、鵲は未だに納得出来ていなかった。
顔でも洗って気分を変えようと、鵲は洗面所に立った。鏡に鵲の顔が映った。三峰ゆずりの色白の端正な顔の中で、赤い瞳がこちらを見ていた。。赤い瞳はイサクの血の作用だった。それは毒に侵されない唯一の盾の証。だが同時に風の力を失った証でもあった。鵲は大きく息を吐いた。漆黒の髪がさらさらと揺れた。髪は肩先まで伸びていた。風の力を持つ者は長髪の者が多い。風になびく髪の感覚で多くを知る事が出来るからだ。
(私には、もう・・必要ない)
大股で机に戻ると、引き出しから鋏を取り出した。再び鏡の前に戻ると、鋏でじゃきじゃきと髪を切った。黒くしなやかな髪が洗面台に落ちた。鵲は表情のない顔で鏡を見詰めながら、髪を切り続けた。
「髪をどうされたのですか」
廊下で行き会った千条が鵲に尋ねた。鵲は少し決まり悪そうな顔をして言った。
「鬱陶しいので、切りました」
「後ろが不揃いですね。揃えて差し上げましょう」
千条は鵲を自分の部屋へと導いた。椅子にかけさせると首の周りに白い布を巻いた。千条は専門家の使う髪切り鋏を出して来た。千条は鋏の穴に指を通し、少し笑って説明した。
「百合枝様の髪のお手入れも、私の仕事なのです。お屋敷の他の方の髪も、切って差し上げる事もあります」
鵲は大人しく俯き、うなじに鋏をあてる千条のされるがままになっていた。千条も風の家の者である。鵲の行為の意味を理解していた。自身も長く伸ばした髪を後ろにひとつに束ねていた。
「鵲様の剣の腕は、若手では抜きん出ておられる」
鵲は苦笑した。
「気休めはやめて下さい」
千条は世間話でもする様に言った。
「私はかつて盾ではなくなりました。この片足が不自由になったからです」
五体を損ねた者は盾を引退するのが決まりである。その事は鵲も知っていた。
「それでも竹生様は、私をここにお呼び下さった。百合枝様をお守りする為に」
「多少の不自由があろうと、貴方の強さは並の盾以上だと思われての事でしょう」
千条は微笑んだ。
「来てから、竹生様に鍛えられました」
「羨ましい。私も柚木の様に、竹生様にご指導を仰ぎたい」
「竹生様は、それをお待ちなのでは?」
「え?」
「今以上に、剣技を磨いて欲しいと」
ショキショキと快い音を立てて、千条は白いうなじの漆黒の髪を切り揃えていった。
「風の家の者は、風の力に頼り過ぎて、他が疎かになる者も多い。鵲様は努力しておられる。剣の腕は、まだまだ上達する見込みありと、私は見ています」
鵲は千条が自分を励まそうとしているのを感じた。
「ありがとうございます」
千条の声に強さが混じった。
「もっと上を目指して下さい。今のご自分に不満でしたら、もっと強くなる事を」
鵲ははっとした。
(そうだ、その通りだ。悩んでばかりいても仕方ないのだ)
「出来ました」
千条はささっと刷毛で細かい毛を掃うと白い布をはずした。鵲は立ち上がると千条に頭を下げた。
「貴方のおかげで、目が覚めました」
千条は微笑した。夜はそこまで来ていた。
「三階に行かれますか?」
「はい、竹生様にお願いしてみようと思います。駄目なら自分で鍛錬の方法を見つけます」
「その時には、及ばずながら、私もお手伝いを」
「はい、その時には」
鵲はようやく明るい笑顔を見せた。その顔は三峰に良く似ていると、千条は思った。鵲は出て行った。千条の”人ではない”耳は、鵲が階段を昇って行く力強い足音を聞き取っていた。