朱雀と赤荻の行く手にひとつの影があった。二人は立ち止まった。赤荻が身構えた。小柄な人影は敵ではなかった。夜風が皺枯れた声を運んで来た。
「騒々しい事よの」
雲間から現れた月が、後ろ手を組んだ小さな老婆の姿を照らし出した。朱雀は呼びかけた。
「群青の家の・・雪火(せっか)様ですか?」
群青とは『奴等』の侵入を阻む”壁”を管理する一族である。
老婆は腰を伸ばし、目の前の朱雀を見上げた。
「ほう、善衛(よしえ)のとこの長男坊か。随分と色男になったな」
「ここは危険です。お屋敷にお戻りを」
「ひよっこに心配されるほど、まだ耄碌しておらんわい」
老婆は朱雀の頭の先から爪先まで、無遠慮にじろじろと眺めた。
「それより、女遊びは程々にしておるか?お前は昔からモテたからの」
老婆は小指を突き立て、朱雀を見るとにやりと笑った。
「何をおっしゃます、お婆(ばば)さま」
さすがの朱雀も、子供の頃に世話になった老婆には頭が上がらなかった。軽口とは裏腹に、意味ありげな視線と共に、老婆は顎をしゃくった。その示した先の地面に何かがあった。闇をも見通す朱雀の目には、倒れ伏す人であると解った。後ろに控えていた赤荻に軽く手を振ると、赤荻は頷いて調べに走った。
二人きりになると朱雀は言った。
「お婆さま」
「何じゃ」
「お婆さまも、我らと同じ道を・・」
老婆は肩をすくめた。
「今時の若者は辛抱が足りないからの。楽隠居は当分無理だわい」
老婆は再びにやりと笑い、朱雀を見上げた。
「たまには遊びに来い。良い男を見ると寿命が延びる」
朱雀は老婆の前に跪いた。そして老婆の痩せた手を取り、恭しく口付けた。
「『奴等』の援軍を阻止して下さって、ありがとうございます」
「気付いておったか」
「”壁”の穴を塞いで下さいましたね」
「”壁”を護るは我らの役目、そうそう穴を開けさせてたまるものか」
「ネズミ一匹分だけですね」
老婆はじろりと朱雀を見た。
「今も口の減らん奴だの。負けたネズミの逃げた穴は、すぐに塞いだわ」
朱雀は跪いたまま、老婆の手を両手で暖かく包んだ。
「感謝しております、お婆さま」
老婆の皺だらけの頬がほんのりと朱に染まった。
「本当かえ?」
朱雀は老婆の目を覗き込んで微笑した。
「はい」
老婆は満足そうに頷いた。
「では、屋敷まで背負って行ってくれんかの。さすがに堪えたわ」
「仰せのままに」
「朱雀様」
倒れた人の横に屈みこんでいた赤荻が叫んだ。
「今、行く」
朱雀は老婆の方に背を向けた。
「どうぞ、お婆さま」
老婆はひょいと身軽に朱雀の広い背中に飛び乗った。
